問題の所在
現代のフェミニズム言説において、「性的搾取」という概念は頻繁に用いられる。しかしその定義はきわめて曖昧であり、暴力的強要や人身売買のような明確な被害を示す事例のみならず、性的表現一般や創作物、あるいは想像上の表現までも射程に含めようとする傾向が見られる。とりわけSNS以降の情報社会においては、性的表現が女性蔑視や性差別の象徴として批判される一方、その基準は恣意的で、社会的な同調圧力としての「倫理的規範」に置き換わりつつある。
この「倫理的規範による検閲」こそが問題の核心である。表面的には女性の尊厳を守るための正義として語られながらも、実際には自由な表現や異なる価値観を抑圧する政治的装置へと転化する危険を孕む。過去においても、類似の構造はすでに経験されている。すなわち、戦前日本の「風紀取締」や「国家道徳」の名の下に行われた表現規制が、やがて報道統制と思想統制へと展開していった過程である。ここにおいて、倫理と権力が結託する危険性は、歴史的にも明白であった。
「性的搾取」概念の曖昧性と権力性
「性的搾取」は本来、暴力や経済的圧力によって他者の性的自由を侵害する行為を指す。しかし、現代フェミニズムの一部潮流においては、性的欲望そのもの、あるいはその表象までもが「搾取」とされる傾向が強まっている。たとえばポルノグラフィや性産業、二次創作文化が、女性を「消費する文化」として批判の対象とされる場合、それは実際の搾取の有無ではなく、「性的欲望の構造」自体を不道徳とみなす立場に基づく。このような立場は、フーコーが『性の歴史』(1976)で指摘したように、「性を語る権力」が社会的統制の手段として機能することを想起させる。すなわち、倫理の名を借りた規範権力の再生産である。
ここにおける最大の問題は、「誰が搾取を定義するのか」という権力の所在である。性的搾取をめぐる規範は、しばしば当事者の合意や主体的判断を無効化し、「被害者であるべき女性像」を固定化することで成立する。その結果、女性の主体性は保護の名のもとに奪われ、男性の欲望は倫理的罪悪として糾弾される。かくして、道徳の言語が政治的支配の言語に置き換わるのである。
代替手段の出現と支配構造の変化
情報化社会においては、性産業・ポルノ・創作文化といった多様な代替手段が存在し、現実の異性関係を介さずに欲望を処理・表現できる環境が整っている。これらは、現実の男女関係を通じて生じていた従来的な「性的取引」構造を相対化させる。すなわち、性的同意や関係性を通じて他者を支配することが困難になる社会である。
この点で、ポルノや二次創作などを「性的搾取」として批判する言説の背後には、単なる倫理的立場以上の感情的動機が作用していると考えられる。すなわち、男性の性的欲望が現実の女性に依存しないかたちで充足されることへの不快感、あるいは「弱みを握る機会」の喪失に対する無意識的反発である。代替文化が男性の欲望を独立化させることは、女性優位の社会的・感情的立場を相対化させる。そのため、これを「搾取」として排除しようとする動きは、欲望の道徳的支配を維持するための戦略と見なすこともできる。
倫理的正義の政治的利用——戦前との類似構造
倫理を名目とする規制が、国家権力の統制装置へと転化することは、戦前の日本がすでに経験した事象である。たとえば1930年代の「風紀取締」や「出版法改正」は、当初は「青少年の健全育成」や「風俗の浄化」を目的として正当化された。しかし、その延長線上で、治安維持法による思想検閲・報道統制が行われ、結果的に戦争体制を支える情報統制機構が完成するに至った。ここでは、道徳的正義が国家権力の政治的正当性を補強する装置として機能したのである。
現代におけるポルノ規制や創作物への倫理的攻撃は、この構造を再び繰り返す危険を孕む。リベラル勢力が女性の尊厳を守るという名目で表現規制に加担することは、結果として「検閲の再来」を正当化する装置に転化しうる。国家や企業による監視・規制の権限が強化されるとき、その口実が「倫理」であることは、歴史的に繰り返されてきた事実である。戦前の「国家道徳」が戦時体制の足掛かりとなったように、現代の「フェミニズム倫理」もまた、言論統制の新たな基盤となりかねない。
リベラルの自己矛盾と自由主義の再確認
本来、リベラルとは自由と多様性を擁護する立場である。にもかかわらず、倫理的正義の名のもとに表現の自由を制限する動きがリベラル内部から生じていることは、深刻な自己矛盾である。とりわけ、ポルノや創作物のように「けしからん」とされやすい対象は、規制の口実として最も利用されやすい。これは、倫理的多数派が少数者の想像力を抑圧する構図であり、フーコーの言う「知の権力」そのものである。
丸山眞男が『現代政治の思想と行動』(1964)で述べたように、日本の近代自由主義はしばしば「外から与えられた制度」として脆弱であり、倫理的共同体意識によって容易に形骸化する。その傾向は、戦前の国家道徳にも、現代リベラルの「倫理的正義」にも共通している。自由の理念を守るためには、まず倫理的感情の政治的利用に対する警戒心を取り戻すことが必要である。
結論
「性的搾取」という概念は、本来、人間の尊厳を守るための倫理的枠組みである。しかし、その曖昧性ゆえに、権力がこれを政治的に利用する余地を常に孕んでいる。倫理が政治に転化するとき、自由は最も早く失われる。戦前の「風紀取締」がそうであったように、リベラルが自らの正義を絶対化すれば、同じ道を辿ることになるだろう。
フェミニズム的価値を守るとは、単に表現を排除することではない。むしろ、異なる価値観や表現が並存しうる社会的環境を維持することである。倫理を超えた制度的自由こそが、真の尊厳を支える基盤である。いま求められているのは、戦前の歴史から学び、正義の名の下に言論を縛る誘惑に抗するリベラルの自己批判的勇気である。
参考文献
- Michel Foucault, Histoire de la sexualité I: La volonté de savoir, Gallimard, 1976.
- Judith Butler, Gender Trouble, Routledge, 1990.
- Nancy Fraser, Justice Interruptus, Routledge, 1997.
- 上野千鶴子『セクシュアリティの政治学』岩波書店、2002年。
- 丸山眞男『現代政治の思想と行動』未来社、1964年。
- 佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の戦時体制』中央公論新社、2004年。
