The Fallacy of Excess Money Hypothesis: Supply Shocks, Foreign Currency Demand, and the Structure of Yen Depreciation
要旨
近年の日本経済における物価高と円安の進行をめぐり、しばしば「国債発行と日銀の金融緩和による過剰な貨幣供給」が主因であるとの言説が流布している。しかし本稿は、こうした貨幣量過剰説が現実の国際取引構造および供給動態を過度に単純化している点を批判的に検討する。実際には、異常気象・地政学的紛争・生産調整などによる供給制約が国際価格を押し上げ、外貨建て決済の増大を通じて円売り圧力をもたらしたことが、近年の円安の主要因と考えられる。本稿は、マネー量ではなく実物的需給構造(real-side mechanism)によって為替が調整される経路を明らかにし、貨幣的説明の限界を論じる。
問題の所在
日本の物価上昇と円安を同時に説明する枠組みとして、「国債の過剰発行」「金融緩和による通貨供給の拡大」がしばしば俎上に載る。確かに、通貨量の増加は名目的な購買力を押し上げ、インフレ圧力を高める可能性がある。しかし、為替市場における円売り・ドル買いの構造を単に貨幣量の変動で説明することは、理論的にも経験的にも妥当ではない。
近年の物価高騰は、貨幣現象というよりも、むしろ国際的な供給制約という実物的ショックの帰結である。したがって、本稿は次の仮説を提示する。
「円安は過剰な通貨発行の結果ではなく、供給制約による輸入価格上昇と外貨需要増加が主因である。」
供給ショックと国際価格上昇
2020年代初頭以降、世界的なインフレを誘発した要因の中核は、次の三つの供給ショックに求められる。
- 異常気象による農産物・資源供給の減少。国連食糧農業機関(FAO)によれば、2021年から23年にかけて主要穀物生産地の干ばつ・洪水が重なり、食料価格指数は20%以上上昇した。
- 地政学的リスクの高まり。ロシア・ウクライナ戦争や中東不安定化は、エネルギーおよび穀物輸出の制約を生み、一次産品市場の価格を急騰させた。
- 供給網の脆弱化。新型感染症拡大に伴うロジスティクスの遅延や生産調整が、製造業・資源輸送に連鎖的な影響を与えた。
これらはいずれもマネーサプライとは無関係に国際的な物価水準を押し上げる。すなわち、インフレの起点が「供給サイド」に存在するという点が決定的である。
外貨決済需要の増大と円売り構造
供給ショックによって輸入財の国際価格が上昇すると、同一数量の原材料・エネルギーを購入するために、より多くの外貨が必要となる。結果として、日本企業のドル建て支払い総額は増加し、外貨需要が上昇する。
このときの為替市場では、外貨実需(transactional demand for foreign currency)が増し、円が売られてドルが買われる圧力が高まる。ここに生じる円安は、金融政策の結果としての通貨価値下落ではなく、国際収支上の実需変動による自然な市場調整とみなされる。したがって、外貨決済需要の拡大こそが円安の直接的要因であり、国債発行量やマネタリーベースの増加は副次的である。
国債発行と円安の因果関係をめぐる再検討
国債発行が円安を導くという通俗的理解には、少なくとも三つの論理的欠陥が存在する。
- 国内保有構造:日本の国債は約9割が国内で保有されており、海外投資家による売買圧力を通じた資本流出リスクは限定的である。
- 貨幣量と為替の非線形関係:実証的研究(Krugman, 2016; Obstfeld & Rogoff, 2020)によれば、マネーサプライと為替レートの関係は長期的に安定しておらず、短期的な変動要因は主として資本移動と実需である。
- 国際比較の非対称性:米国・欧州諸国も同様に量的緩和を拡大しており、日本のみが「過剰発行」によって通貨下落を被る説明は整合的でない。
これらを踏まえれば、「国債発行=円安」という命題は、マクロ金融論的にも支持されにくいことが明らかである。
為替の実需決定メカニズム
為替レートは、最終的には貿易収支・経常収支・資本移動の合成結果として決定される(Friedman, 1953)。輸入価格の上昇が持続すれば、外貨流出超過が常態化し、円安圧力は構造的に強まる。逆に、輸出競争力の回復やエネルギーコストの低下が起これば、円高への修正圧力が生じる。ここにおいて重要なのは、為替変動が貨幣的量ではなく実物的需給の均衡調整として理解されるべきという点である。
結論
以上の分析から、近年の円安と物価高を「過剰な国債発行」や「貨幣供給の拡大」に求める貨幣量過剰説は、因果順序を取り違えていることが明らかである。実際には、供給ショック → 国際価格上昇 → 外貨決済需要増 → 円売り圧力 → 円安という実体経済的経路がより妥当な説明を与える。
したがって、金融引き締めや国債削減によって円安・物価高を抑制しようとする政策は、構造的問題を解決しない。むしろ、エネルギー自給体制の強化、サプライチェーン多元化、労働生産性向上といった実体経済的政策こそが、為替安定と物価安定の基盤を提供する。
参考文献
- Friedman, M. (1953). The Case for Flexible Exchange Rates. Essays in Positive Economics. University of Chicago Press.
- Krugman, P. (2016). Exchange Rates and Monetary Policy Reconsidered. Brookings Papers on Economic Activity.
- Obstfeld, M., & Rogoff, K. (2020). Foundations of International Macroeconomics. MIT Press.
- International Monetary Fund (IMF). (2023). World Economic Outlook: Inflation and Real Sector Dynamics.
- United Nations FAO. (2023). Food Price Index Monthly Report.
